「消えない火」は、もういらない

宮城県の女川町が
メディアで「復興のトップランナー」として取り上げられている。

15メートルの津波が街をなめ尽くし、
800人を超える方が亡くなるという悲惨な状況から...
再び、立ち上がり、
若い人たちを中心に、新しい町づくりをめざす女川町の人たちの
とりくみは、本当にすばらしいものであることはいうまでもない。
ましてや、ケチをつけようなどとは毛頭思っていない。

でも、被災地全体、とりわけ、今なお、原発事故に苦しむ福島のことを思うと、
正直、違和感を覚えてしまう。

復興のスタートラインに立てからこその「トップランナー」である。
いまだに、スタートラインにすら立つことができない人々が暮らす地域。
若い人たちの知恵や力を期待したくても、若い人たちがいなくなり、年寄りだけが取り残された地域。
そんな人たちにとって、「復興のトップランナー」という言葉は、
重く苦々しく、孤独感や疎外感を一層、かきたてられるものになってしまうのではないかと思い、悲しくなってしまう。

ずっと昔、東北を車で旅したときに、女川原発に立ち寄った。
原発の良い面ばかりを強調する案内に、なんの疑問を感じることもなく、
「そんなものか」と思っていたからっぽの自分がいた。

そんなことがあっては、当然ならないことだが、
もし、あの震災で女川原発が事故を起こしていたら、
女川町は、「復興のトップランナー」どころか、
復興からまったく取り残された、人の住めない地域になってしまっていた
危険性は、誰にも容易に想像できる。

女川町が「復興のトップランナー」として、走り続け、やがて、
「やはり、街の経済を活性化するためには、女川原発の再稼働が必要だ」
ということになり、再稼働が認められてしまうようなことになれば、
地域やコニュニティの復興と原発神話の復活がいっしょくたにされてしまう。

メディアが、女川町を「復興のトップランナー」として、
一斉にはやしたてること。
その裏側には、この国の誰かの悪意に満ちた情報操作の思惑があるように感じてしまうのは、自分だけではないはずだ。

復興のスタートラインにいまだ立つことのできない福島に暮らす
南相馬ファクトリーの佐藤さんが、
福島民放のコラムに「消えない火」という文章を寄せている。

福島にも、女川にも、川内にも、そして、日本のどこにも、
もう「消えない火」はいらない。

これからこの国を担っていく小さな子供たちにも、わかりやすく読める佐藤さんの文章をぜひ、お読みになってください。

(女川町の人たちには、もしかすると、大変失礼なことを書いてしまったかもしれない。お気を悪くされたら、本当にごめんなさい。私自身ももちろん、女川町の復興を心から願っています。)

http://minamisoma-fc.jugem.jp/?eid=1082

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捨てられない手帳 3月11日に思うこと

2011年から毎年の手帳が捨てられなくなった。

3月11日、銀座のスワン本部で海津社長(当時)と打ち合わせ中に、
大きな揺れに見舞われた。
電車がすべて止まり、徒歩で町田をめざした。...
情報が全く入手できず、東北地方の沿岸部で
大変なことが起きていること知らないまま、歩き続けていた。
日付が変わるころ、成城学園前から、運転を再開した小田急で帰宅し、
恐ろしい事実をようやく知ることができた。

12日は、朝から、就労支援センターの登録者のうち、
一般就労している人たちの安否確認をおこなった。
歩いて帰宅した人、会社に泊った人、避難所で一夜を明かした人、
翌日になってようやく46名全員の無事が確認できた。

16日に、当時の法人内で、震災対策会議を立ち上げ、
被災地の障害者施設への支援(救援)策を話し合った。

食糧や飲料水、燃料や日用品をかき集め、
18日早朝に、今は亡き糀谷さんを隊長とする
第1次支援隊が、被災地(宮城県)に向け、出発した。

被災地から戻った糀谷さんからの報告書には
次の文章が記されていた。

「津波被害を受けた地域を視てきました。
ニュース以上のショックを受けました。
この場所で笑ったり、泣いたりしていた人がいたとは考えたくない、
信じたくないといった光景でした。
町の復興や再建というより、開拓が必要になるといった感じです。
かろうじて残った家から荷物を運び出す人や、
ただ呆然と家を見ている人がいました。
ただただ胸が痛くなるだけでした。
また、いたる所に壊れた車が放置されていました。
これらの車は給油キャップが、こじ開けられており、
ガソリン不足も痛いほど見てとれました。
なかば興味本位のような気持ちで津波の被災地に踏み込み、
写真を撮ってきたことに後悔をしています。
けれども、今回の現地入りは
『いろいろな事を考えることができた』
『考える機会を与えてくれた』
私自身にとってプラスの経験だと思っています。
たいした支援はできませんが、
許可があれば再度現地に向かいたいと思います。」

震災直後の被災地に入り、生々しい現実を観た糀谷さんたち。
「天野さん、被災地から送った写真は消去してください」と、
いまにも泣きだしそうな表情で、弱弱しく口にした
彼の言葉(そして彼の優しさ)が忘れられない。

糀谷さんの話を聞き、居てもたってもいられずに、
25日~27日まで、
今度は、私自身が、第2次支援隊の隊長として、
就労支援センターの職員2名を連れ、被災地(岩手県)に向かった。
遠野市在住の旧友に道案内を請い、
釜石から宮古までの沿岸部を北上した。
震災から2週間過ぎていたが、
国道45号線の両脇には、ガレキが山のように積まれ、
戦場のような光景がどこまでも続いていた。

車を降りて、歩いた宮古の鍬ケ崎地区では、
大きな観光船が、海から何百メートルも陸地に乗り上げ、
船の下には押しつぶされた家屋や車があった。
テレビの画面ではなく、生で観る現実に身体が震えた。

その後も法人から、何度も支援隊を派遣すると同時に、
たとえ被災地に行くことができなくても、できる支援として
被災地の障害者施設の製品を仕入れ、販売する復興支援物産展を
各地で開催した。

2011年以降の手帳には、被災地の地名がいくつも並んでいる。

釜石、山田、大槌、宮古、陸前高田、気仙沼、
仙台、名取、七ヶ浜、石巻、亘理、
南相馬、飯舘、福島、郡山、須賀川…。

震災から4年。
いまだ原発事故の影響を受け続ける福島を筆頭に、
被災地の復興はまだまだ進んでいない。

もし、あの震災がなかったら、
新しい法人を立ち上げ、
障害のある人のディーセントワークをめざして、
就労継続支援事業A型に特化したとりくみも始めていなかったかもしれない。
そうした意味で、私たち自身にとっても、あの日は、大きな転換点となった日かもしれない。

できることなど、たかがしれている。
でも、あの日を忘れないでいること、
たとえ、細く弱いものであっても、
どこかで、被災地とつながり続けていることを大切にしていきたい。

震災で亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、
被災地の復興が1日も早く成し遂げられることを願って。

きょうされん福島支部から、3月11日を迎えるにあたって、メッセージが出されました。
穏やかで心優しい人たちが暮らす福島からのメッセージです。
震災から4年過ぎても、
原発事故の被災地でもある福島の復興はまだ始まっていません。
福島の現実、福島で暮らす障害のある人たちの現実を...
たくさんの方に知っていただくために、
ぜひともシェアをよろしくお願いします。

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福島県須賀川市の障がい者事業所と仕事でつながる。

明日から、福島に出張します。

スワンカフェ&ベーカリー町田店の就労移行支援事業所(以下、「スワン移行」)で、おこなっている作業を、福島県内の障害者施設でもとりくんでいただけることになり、作業内容の説明をするために、スワン移行の利用者1名といっしょに行ってきます。

震災、そして原発事故の影響による企業の撤退や縮小で、請負作業が激減して、利用者の作業確保に困っているという話を聞き、この間、就労支援センターらいむを通して、「福島に出せる仕事はないか?」と、企業さんに働きかけてきました。

スワン移行で、6月からとりくんでいるトレーディングカードの仕事は、作業を細分化すれば、比較的障害の重い人でもとりくめる仕事です。完成品がそのまま商品になることで、見通しが持ちやすく、達成感も得られます。また、小型の段ボール1箱に、完成品1000パックが入るので、遠距離の作業所に仕事を出す場合に、一番ネックとなる物流コストの面でも負担を最小限に抑えることが可能です。

仕事を出してくださっているブックオフコーポレーションの特例子会社である株式会社ビーアシストさんに、お願いさせていただいたところ、真摯にご検討をいただき、被災地支援の観点からも大切なとりくみであると、GOサインをいただくことができました。

早速、JDF被災地障がい者支援センターに、お話を持っていったところ、福島県須賀川市の就労継続支援事業所9か所の連携による「BSN(須賀川B型就労ネットワーク)」さんから、「ぜひ、やらしてほしい!」という申し出を受けました。

明日は、初回分の資材を持って、BSNのとりまとめをしてくださる「ワークセンター麦」さんを訪問させていただき、作業の説明と実演をさせていただく予定です。

同行する利用者のIさんは、田舎が福島県のいわき市ということで、同行者を募った際には、真っ先に手を挙げてくれました。3連休は、いわき市に行っていましたが、また、明日から福島に行けるということで、張りきっています。

どんな作業か、イメージを持っていただくために、今日のスワン移行での作業の様子を紹介します。

Swaniko01

今日の午後は、手前の6人でトレカの作業にとりくみました。
奥の2人は、別の作業をしています。

Swaniko03

カードを色別に仕分けています。
折れたり、汚れてたりしているカードははじきます。
カードの絵柄がみんな違うので、飽きませんが、
カードに興味のある人は、逆に仕事がはかどりません。

Swaniko02

ルールに従って、カードを10枚ずつ組みます。
カードの痛みや汚れは、この工程でも再チェックします。
組み上がったカードを販売用の袋に入れます。

Swaniko04

袋に入ったカードを電気バカリで計量します。
カードの数が違っていると、音が鳴りません。
その時は、袋の中を再チェックします。

計量を通過したカードをシール留めします。
はがしたシールは、あちこち、くっつかないように
ガムテープにまとめます。

シール留めした袋は10パックずつ束ねます。
それを段ボールに、1000パックつめて、発送します。

どうです? そんなに難しくはありませんし、おもしろそうな作業でしょ!

明日から、スワン移行の写真と同じような風景が
須賀川市の事業所で始まります。

福島と東京の事業所が、同じ仕事でつながっている。
ちょっと、いいと思いませんか?

仕事を提供してくださる「ビーアシスト」さん、仕事を請けてくださる「BSN」の皆さんに感謝です。

(天野)

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「ガレキは辛いんです。廃棄物、混合ごみ、混入土砂… どんな言葉で言い替えたって辛いんです。」

ジャーナリストで、ノンフィション作家の丸山佑介さんの最新刊「ガレキ」(ワニブックス)を読みました。

本の帯には、次のように書かれていました。

「東日本大震災で発生したガレキの受け入れを通じて、あらためて”絆”を問う魂のルポルタージュ!」

「震災ガレキと今なお対峙する被災者、苦悩する行政、広域処理に反対する市民、受け入れを表明した首長たちの”心の声”がここにある!」

「本当に受け入れて欲しかったモノは、放射能なんて付いていない、心の奥にある清らかな優しいモノのはずだった」(被災地の女子高生の言葉)

「ガレキ」は、「瓦礫」ではありません。
何度か、被災地を訪ねて、うず高く積まれた「瓦礫」の山に
引き寄せられるように近づいて、
目を凝らして見た瞬間から、「瓦礫」は「ガレキ」に変わります。

「絆」という、平時であれば、あまり見向きもされない言葉に
まるで日本中がわき返ったような状態になった震災直後から、
1年半を過ぎた今、
時折、街中で見かける「絆」と書かれたポスターが、
色あせたり、破れたりしているのと同じように、
被災地のことが段々と、忘れ去られようとしているのは
悲しいことです。

これから、短い秋を駆け抜け、また厳しい冬を迎えようとしている
被災地で暮らす人々。
1日も早い復旧・復興に向けて、
先頭に立ち、被災地で踏ん張る首長たちの言葉が、心に響きます。

「自然災害は被災した皆さん、あるいは宮城県民の責任ではありません。
ガレキ、ガレキとも言われますが、
皆さんの家から不要物として出されたゴミではありません。
このガレキは誰もが自分の意思で出したわけではないのです。
それどころか、
どんなものであっても、ひとつひとつがこれまでの大事な財産だった。
個人の資産だった。
大切な宝物ばかりで誰にも奪われたくない大切なものだった。
それが昨年3月11日に突然津波により流されてしまった。
その結果がガレキとなっている。
ガレキを出した当事者意識を持っている皆さんひとりひとりは
むしろ被害者なのです。
よって気にすることはありませんし、
誰にも臆することはないのです。
…中略
もしこのことで反対意見を持つ人がいたら、
少しだけ考えてみていただきたい。
すでに震災から1年以上が経過した現在でも
ガレキの中からはいろいろなものが出てきます。
その中には、津波に飲まれる瞬間まで生活の空間にあってであろうと
思わせるものだってある。
私たちはひとくくりに「ガレキ」というひとことで片付けてしまいがちですが、
ひとつひとつの中に人生やドラマが含まれているのです。」
(宮城県知事 村井嘉浩さんへのインタビューから)

「もともとガレキは市民の財産だったものです。
ガレキの山は遠くから見れば廃材ですが、
近づくとひとつひとつがわかる。
子どものおもちゃだったり、洋服だったり、
家具の欠片だったり、本の切れ端だったり、
生活雑貨だったりする。
家族が見れば自分の家のものだとわかります。
もしかしたら亡くなった人のものかもしれない。

ガレキは辛いんです。
廃棄物、混合ごみ、混入土砂…
どんな言葉で言い替えたって辛いんです。

それが自分の前に取り残されていて、
まだあることは大変辛い。
それは自分の子供を轢き殺した車が
玄関に置いてあるようなものだからです。
…中略

ニュースでガレキ問題が放送される。
それは、ただでさえ思い出したくないことを
またクローズアップされることになる。
…中略

陸前高田だけではなく被災地の人からすれば、
被災した日から、ずっとそこにあるものなのです。
広域処理で運ばれる先の事情ばかりが注目され、
ガレキを生みだした地域にいる被災者の感情が
置き去りにされていることで、
余計に感情論で語られているように思います。
被災地の現状からすれば、一刻も早く片付けてしまいたい。
片付けるためには感情を抜きにした処理を迅速にするべきなんです。

ただし、みんなが安全で安心できるように
科学的根拠をきちんと示す。
ガレキの処理の話なんて通過点に過ぎないはずなのに、
そこで躓いてどうするんだと思うのです。」
(岩手県陸前高田市長 戸羽太さんへのインタビューから)

「ガレキは辛いんです」
「仮設住宅での暮らしは辛いんです」
「仕事のないことが辛いんです」
数えきれないくらいある被災地の「辛いんです」を
被災地以外の私たちが、
最大限の想像力を働かせて、
考えてみることの必要性を、
いま一度、気づかせてくれる素晴らしいルポだと思います。

断りなく、本から引用してしまったことをお詫びしながらも、
たくさんの人にぜひ、読んでいただきたいと思う気持ちを
ご理解していただければと思います。

来週半ばに、福島に行ってまいります。
震災の影響で、仕事が減ってしまった須賀川市の作業所を
訪問させていただき、
首都圏の企業さんにご協力いただいて、出していただけることになった
仕事の仲介をさせていただくことが訪問の目的です。

今、私が働いているスワン移行の障害のある利用者も同行してくれることになりました。

自分にできることは、本当にわずかなことですが、
息長く、続けていきたいと思います。
それが、被災地で「ガレキ」を目の当たりにした者の
「責任」ではないかと思うのです。

Bookgareki

「ガレキ」(丸山佑介/ワニブックス)
ぜひ、お読みください。

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「朝にありがとう。仕事にありがとう。」 季刊誌『コトノネ』の販促ポスターができあがりました。

 今年1月末に、ウィズ町田で創刊した季刊誌『コトノネ』。季刊誌ですから、1年に4回の発行。きっちり発行日を守って、4月末に第2号を発行しました。

 『コトノネ』は毎号1万部の発行。創刊号や第2号をお読みいただいた方から、このところ毎日4~5件の定期購読のお申し込みをいただいています。まだ件数はあまり多くはありませんが、広告掲載のお問い合わせなどもいただいており、「発行人」としては嬉しい限りです。創刊仕立てのまだまだ「若い」雑誌ですが、これから十分に「発酵」させ、熟成させることが「発行人」の役割だと思っています。

 季刊誌「コトノネ」の公式サイト「コトノネヤ」はご覧になっていただけてますでしょうか?
ここ数日、「コトノネヤ」のブログが毎日、更新されています。「コトノネ」の取材の裏側など、「コトノネ」読者の皆様にとっては、興味深い記事が満載ですので、ぜひ、一度、ご覧になってください。

 「コトノネ」の販売促進のための素敵なポスターができあがりました。

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 創刊号の表紙を飾った福島県郡山市の「にんじん舎」さんで働くOさんがモデルのB2版の大型ポスターです。

 創刊号では満面の笑顔のOさんですが、ポスターでは一転、キリリとした「働くバージョン」の表情で魅せてくれています。

 このポスターをご希望の方は、「就労支援センターらいむ」宛に、メールでお問い合わせください。

 見ているだけで、とっても元気が出ますよ!

(天野)

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いっしょに、生きよう。暮らし元気マガログ『コトノネ』第2号を発行しました。

 長らくブログの更新が滞ってしまい、申し訳ありませんでした。

 年度替わりの事務仕事に加え、法人内職員の退職や異動に伴い、現場に入る時間が増えたこと、また、5月5日にオープンする「スワン町田2号店」の準備に忙殺されていました。

 そんな中、『コトノネ』第2号が納品されてきました。発行部数は、創刊号と同じ1万部。ウィズ町田の事業所には、そのうちの9千部が納品されました。前回の経験を踏まえ、今回は、「就労支援センターらいむ」と「スワン移行」の2ヶ所に分けて、納品していただきました。半分の数になったとは言え、どちらの事業所でも、山積みされた束が圧倒的な存在感を誇っています。

 明日から、順次、発送作業をおこなっていきますが、この山が完全になくなるまでには、しばらく時間がかかりそうです。

 Kotonone

 『コトノネ』第2号の読みどころをお伝えします。

 雑誌の体裁は、創刊号と同じB5版、80頁フルカラー印刷になっています。

 創刊号は、独立行政法人福祉医療機構様の助成金をいただき、発行したので、1万部をすべて無料頒布しましたが、今年度は助成金もなくなり、自前で発行しなければならなくなったため、1冊定価680円(税込)となります。必ずお値段以上の「価値」はあると自信と持っておりますので、ぜひ、お買い求めください。

 

 表紙と巻頭のグラビア№1は、岸本剛カメラマンによる撮りおろし。

 今回のテーマは、「迎える。」「いらっしゃいませ」です。

 宮城、岩手、福島の東北3県の事業所で働く障害のある人たちが、とびっきりの笑顔で皆さんを迎えてくれます。

 

 特集1は、企業で働く障害のある人の就労事例ルポ。

 今回は、障害者実雇用率全国ナンバー1の「ユニクロ」で働くひとりの青年を取り上げました。題して、『ユニクロの星。』

 この就労事例ルポは、『○○の星。』として、今月号から連載でお届けします。障害のある人たちが実際にどんな企業で、どんな働き方をしているのか? 企業で働くためには、どんな力が必要か? 長く働き続けるためには、どんな支えが必要か? 皆さんの興味・関心にお応えする企画です。

 

 連載コラム・『父が愛したボローニャ』は、こまつ座代表の井上麻矢さんによるエッセイ。

 子どもも老人も障害者も、支え合い共に生きる街、ボローニャは、麻矢さんのお父様である作家・井上ひさしさんが愛した街。父が残した取材ノートを携えて、ボローニャの街を旅します。

 特集2は、就労継続支援A型事業所の可能性を探る大特集。題して、『就労継続支援A型はビジネスフロンティアだ。』

 A型事業所は、地域最低賃金を保障しなければならないという「ハードル」があるため、その開設には、多くの福祉事業者が二の足を踏んでしまっている。全国の就労系事業所の平均工賃が1万5千円にも満たない現状を考えれば、A型事業所を増やしていくことが、その解決策のひとつになるのではないだろうか?

 第2号では、東日本大震災にもめげず、被災地でA型にとりくむ3つの事業所を訪ね、詳細にレポートしました。「こんなやり方もあるんだ!」という気づきから、A型事業にとりくんみようと考える方が増えることを願います。

 『コトノネ』では、第2号を皮切りに、全国のA型事業所のネットワークづくりと、A型事業所を増やしていくことを目的に、A型事業所をとりあげる企画を継続していきます。

 商品紹介のページ、『コトノネヤ」では、特集2で、とりあげた被災地の事業所のとっておきの商品をご紹介させていただきます。

 

 グラビア№2は、石川梵カメラマンによる撮りおろし。

 テーマは「迎える。」「やっと、海に帰ってきた」

 震災から1年を迎えた被災地の様子を伝えます。写真とともに、心に沁みいる文章を味わってください。

 被災地ルポ「かすかな光のさす方へ。」では、宮城県石巻市で被災した2つの企業の再生に向けての動きを追いました。

 『ココロをひらけばカラダがうごく』、『心をストレッチする即興劇』は、アートに関するコラム。

 巻末は、今なお原発事故の深刻な被害に苦しむ福島県南相馬市からの連載コラム。

 震災で生き残った私たちが、しなければならないこと。未来を託す子どもたちに伝えなければならないこと。皆さんと一緒に、ずっと考え続けていきたいと思います。

 駆け足で、『コトノネ』第2号の内容を紹介してきましたが、あとは、ぜひ、本誌をお買い求めいただき、ご覧になってください。

 『コトノネ』のご購読には、便利でお得な「定期購読」をご利用ください。

 『コトノネヤ』のサイトで、「定期購読」のご利用方法が、ご確認になれます。

 

 『コトノネ』に関するお問い合わせは、

s-raimu@nifty.com  までお寄せください。

 

 今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 今後とも、よろしくお願い申し上げます。

(天野)

  

 

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震災から1年。これからも「太く長い支援」を続けていく決意

 あの震災から1年が過ぎた。

 今日は、各地で犠牲者追悼式が催され、テレビでが朝から震災関連の特集番組を報道している。東北地方は寒波に見舞われ、冷たい雨や雪のところが多くなっている。仮設住宅で暮らす人たちや震災・津波の被害が生々しく残るご自宅で暮らす人たち、そして、泣く泣く故郷を後にした人たちのことを思うと、胸が痛む。

 被災地を訪れる度、街は少しずつ片付いてきているようにも見えるが、実際には「がれき」の処理はまだ1割も終わっていない。東北地方の沿岸部の集積地に高く積まれた「がれき」の中には、あの日、一瞬にして消え去ってしまった思い出の品々がたくさん眠っている。

 陸前高田の戸羽市長が危惧していたように、「震災から1年」の今日を境に、段々、震災の記憶が遠くなり、被災地のことが忘れ去られていくことだけは、絶対に許してはならないと思う。

 震災後に何度か訪ねた被災地で、たくさんの人と出会い、お話をさせていただいた。東北人気質というのだろうか? 出会った人の多くは、寡黙で我慢強く、自分の事よりも周囲の人たちの事を気に病む人たちだった。支援の物資をお届けしても、「自分たちは大丈夫。どこどこのだれだれさんの方がもっと困っているはずだから、そっちに持っていってあげて」という言葉を何度も聞かされた。

 被災地に足を運べる人は、これから先も、何回でも足を運んでほしい。訪れるたびに、本当に少しずつでも、街の復興が進んでいる様子を見れば、それだけで元気をもらうことができる。

 被災地に出向くことができない人であっても、自分が暮らす場所に居ながらにしてできる復興支援のお手伝いはいくらでもある。たとえば、募金をすることもそのひとつかもしれないが、被災地で暮らす人たちの自尊心や誇りを思えば、もっとちがうやり方もあるように思う。

 障害のある人たちが働く作業所も、地震や津波、そして原発事故で大きなダメージを受けた。一番大きな痛手は、障害のある人たちの生きがいや誇りにつながる「仕事」そのものが激減したり、なくなってしまったりしたことだ。震災後、ようやく再開した作業所に、出てきても、「何もやることがない」「いくら製品をつくっても売る場所がない」。そんな苦悩を聞いて、被災地の作業所の製品を売る「物産展」を開催した。

 震災で明らかになった作業所の最大の弱点は、そもそも、経営という感覚に乏しく、震災のような危機に直面したときの「備え」がまったくなされていないということだ。

 どんな危機に直面しても、決して揺るがない経営基盤を確立させること。そのためには、「福祉」という狭い世界に閉じこもっているのではなく、地域の人々や企業と強固なネットワークを築き、外の世界に半身を乗り出して、自らを変えていくこと。そういったことの大切さや必要性を訴えていきたいと考えて、「コトノネ」を創刊した。

 「コトノネ」や「物産展」のとりくみを、自分自身は、是が非でも続けていかなければならないと考えるが、周囲から100%の理解を得ることの難しさも痛感している。

 とは言え、やはり、続けていかなければならない。震災後、初めて、「物産展」を開催するときに、口にした言葉。「細く長い支援」ではなく、「太く長い支援」を続けていきたい。震災から1年を迎えた今日、改めて、「太く長い支援を続けていく決意」を表明したい。

 その第1弾として、3月24日に、「ぽっぽ町田」で東北復興支援大物産展を開催します。

 同時開催で、「コトノネ」のカメラマンである岸本剛さんの写真展を開催します。

 詳しくは、下記チラシをご覧ください。

「20120324bussanntenn.pdf」をダウンロード

(天野)

  

 

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「希望の味噌」から「感謝の味噌」へ。被災地石巻でがんばる企業その1 『株式会社高砂長寿味噌本舗』さんをご訪問させていただきました

 JR仙石線の矢本駅で、「有限会社はらからネット」の舟山さんと合流し、企業訪問の前に、車で石巻市内を案内していただきました。

 「コトノネヤ」のブログで、株式会社ランドマークの田中さんが記事を書かれていた日本製紙石巻工場の煙突からは、この日も白い煙がもくもくと上がっていました。

 工場の煙といえば、普通は、あまり良いイメージはありませんが、田中さんに同行したカメラマンの岸本さんが言われるように、確かに「悪い感じ」はしません。むしろ、石巻の復興に向けての「狼煙」といった感じでした。

 製紙工場を背に旧北上川に向かう住宅街には、1階部分が損傷を受けたが、辛うじて、2階部分が残った住宅で、生活されている方も大勢いらっしゃるということでした。2階のベランダに洗濯物や布団が干されている住宅を何軒か見ました。

 旧北上川の河口に架かる日和大橋を渡って、工場や市場、水産加工場が立ち並んでいた湊地区に入ると、瓦礫こそ片付けられたものの、ここは殆どまだ何も手付かずといった状態です。昨年10月に訪ねたときに驚かされた、木の屋石巻水産の巨大な缶詰のモニュメントもまだ中央分離帯に取り残されていました。

 旧北上川の中瀬にある石ノ森漫画館もまだ閉鎖中です。石ノ森章太郎さんの漫画の登場人物の像がいくつも見られる石巻駅周辺も、まだあちらこちらに被害の痕跡が見られますが、営業されてているお店も多くあり、車や人が予想以上に行き来していて、賑やかさを感じました。

 三陸道の矢本インターチェンジで、宮古から来たチームと合流し、株式会社高砂長寿味噌本舗さんの東松島工場をめざしました。

 3階建てのお洒落な蔵造りの工場は、自然に恵まれた高台にありました。隣りの敷地にある同じ蔵造りの工場は、宮城を代表するお酒の「浦霞」さんの醸造工場だそうです。工場のすぐ近くには、2000人くらいの方が暮らす大規模な仮設住宅がありました。

 ここで、昨年の10月に石巻のお店でお会いした社長さん、専務さんの懐かしいお顔に再び、お会いすることができました。

 3月のパワーアップフォーラムでは、「高砂長寿味噌」さんと「はらから福祉会」さんとのコラボレーションについて事例を報告していただく予定です。

 高砂長寿味噌さんと、はらから福祉会さんの出会いは、あの震災がきっかけです。希望の缶詰とセットで販売された希望の味噌が両者をつなぐきっかけになりました。「被災した企業が一番必要としているのは現金だ」と、高砂長寿味噌さんの商品をキャッシュで買い取ったはらから福祉会の武田理事長の行動に感激した専務さんが、はらから福祉会の事業所を見学され、一生懸命に働いている障害のある人たちの姿に感銘を受けたことと、充実した機械や設備に驚かれ、これならいっしょに組んで、商品開発ができると考え、その後、様々な商品開発を進めてこられました。

 パイプ役となった「はらからネット」の舟山さんは、震災直後から何度も石巻に足を運び、こうした新たなつながりをつくりだす努力を続けてこられています。この日、社長が、舟山さんに「今日できたばかり!」と差し出したのが、共同開発した商品に貼る、「高砂長寿味噌とはらから福祉会のロゴがコラボしたシール」でした。

 高砂長寿味噌さんでは、月に1回、工場前でイベントを開き、仮設住宅で暮らす方々のために、「炊き出し」をおこなっていらっしゃるということでした。次回のイベントには、はらから福祉会さんも「炊き出し」に参加するとのことでした。

 震災後、再開した東松島工場で仕込んだ味噌は、半年間の発酵熟成期間を経て、完成し、「感謝の味噌』と名付けられました。被災後、寄せられた多くのお客様からの再開を期待する応援メッセージが、「希望」につながり、「希望」へのご恩返しの意味で、「感謝」と名付けられということです。

 「お互いに持てる力を出し合って、復興への道を歩んでいきたい」

 たくさんのお土産とともに、10月に訪ねた際に、撮っていただいた写真を頂戴しました。

 絆を大切にする社長さん、専務さんのお心遣いをとてもありがたく思いました。

 ヤフージャパンの「復興デパートメント」のサイトで、高砂長寿味噌本舗さんが紹介されています。高砂社長ご自身がお話されている映像もありますから、ぜひ、ご覧になってみてください。

 株式会社高砂長寿味噌本舗と社会福祉法人はらから福祉会とのコラボレーションに関する事例報告は、3月31日に仙台で開催する公益財団法人ヤマト福祉財団主催の「スペシャルパワーアップフォーラム」でお聞きになることができます。また、コラボ商品のお土産もついています。

 参加ご希望の方は、ヤマト福祉財団のサイトから、お申し込みになれます。先着250名で申込受付は終了となってしまいますので、なるべく、お早めにお申し込みください。

 

(天野)

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静寂と内省の時間を乗せて走る代行バス

 2月28日、29日の2日間で、東北の被災地で復興に向けて、がんばっていらっしゃる3つの企業さんをご訪問させていただきました。

 今回の訪問の目的は、3月31日に仙台駅前にあるTKPガーデンシティ仙台で開催させていただく「東日本大震災から1年。被災地の障がい者の働く場スペシャルパワーアップフォーラム」(公益財団法人ヤマト福祉財団主催)の事例報告で、ご出演いただくことに対する御礼と、ご挨拶をさせていただくことでした。

 新しい障がい者の働く場の復興の姿を描くことを目的に開催するこのフォーラムの午後のプログラム「事例報告:ピンチをチャンスに!~企業とのコラボレーションが生みだす新たな可能性~」の中で、企業と福祉施設が共同で商品開発や市場開拓にとりくんでいる事例を報告させていただき、参加者の方々といっしょに、地域や施設の復興に向けての新しい可能性を探っていきたいと考えています。

 28日は、石巻の企業さんを訪ねました。

 仙台(あおば通り駅)と石巻(石巻駅)を結ぶJR仙石(せんせき)線は、震災による津波の被害を受けて、高城町(たかぎちょう)駅と矢本(やもと)駅間が今も不通になったままで、1時間に1本の代行バスが運行されています。

 今回は、この代行バスに乗り、石巻に向かいました。高城町の代行バス停留所が駅前から離れているため、バスは1つ手前の松島海岸駅から約30名のお客さんを乗せて、出発しました。

 松島は観光客も少しずつ戻り始めているようで、小雪まじりの天気でしたが、松島海岸駅では、40~50名のお客さんが降りました。バスの窓からも、営業中の土産物屋を何軒か見ることができました。日本三景にも数えられる松島は、風光明媚な観光地です。被災地を元気づかせるためにも、機会があれば(否、機会をつくってでも)、ご旅行されてみてはいかがでしょうか?

 代行バスは、停留所ごとに、律儀に停まっては、ドアを開閉させますが、お客さんの乗り降りはほとんどありません。

 バスは、陸前大塚駅の手前から線路に沿って、海辺を走ります。陸前大塚駅は、ホームの目の前に松島湾が広がっていました。この先の東名(とうな)駅と野蒜(のびる)駅の間では、震災時、津波により4両編成の上り電車が押し流されました。くの字に折れ曲がった電車の写真や映像が記憶に残っている方もいらっしゃると思います。

 地震で緊急停止した電車から、乗務員の指示に従い、近くの小学校の体育館に避難した後、避難所が津波に襲われ、亡くなった方もいらっしゃいます。同じ時間に野蒜駅を出発した下り電車も同じように、緊急停止しました。停止した場所が丘の上で、乗り合わせた地元の方が、「車内に残った方が安全」と乗務員の避難誘導を制止し、指示に従ったことで、乗客・乗務員ともに全員が命をとりとめることができました。

 地元の方が乗っていらっしゃるバスの車内からカメラを向けることはとてもできませんでした。この辺りは、まだ被害を受けた家屋がたくさん残っていました。

 JR東日本では、陸前大塚駅から陸前小野駅までの区間を内陸部に500メートルほど移設して、復旧させることを決定しています。

 震災前、仙台ー石巻間を最速1時間で結んでいた仙石線ですが、松島海岸ー矢本間の18.2キロ(鉄道営業距離)を代行バスは約1時間かけて走ります。平時であれば、海沿いを走るバスの旅は、きっと心躍る旅になったことでしょう。しかし、車内の誰もが押し黙ったまま、静けさだけを運ぶ1時間は、とても長く感じられました。

Daikoubus

(矢本駅前に到着した代行バス)

 長くなりましたので、訪問先企業の様子は、次の記事に掲載させていただきます。

(天野)

 

 

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「生活の思い出がつまったこれらを『瓦礫』と呼ぶことはできない」とマスターはぽつりと呟いた。~『コトノネ』第2号の取材で訪ねた岩手県宮古市の光景から~

 前回のブログで、ご紹介した「カリー亭」さんのある岩手県宮古市は、震災後、私が初めて訪れた被災地のひとつでした。

 あまりの惨状に、カメラを向けることもできず、写真こそ1枚もありませんが、今でもあの光景は瞼の裏に焼き付いています。

 10か月に訪れた町の印象を、ウィズ町田の広報紙に記してみました。一部抜粋して、このブログに掲載します。

(ウィズ町田 広報紙「With №47」より)

 東日本大震災から。11ヶ月経った岩手県宮古市を訪ねました。

 震災後の昨年3月末、支援物資を積み込んだ車で、遠野市から釜石市の中心市街地に入ると、そこには信じがたい光景が広がっていました。

 木っ端みじんに破壊された木造家屋、躯体のみが残ったコンクリートの建物、異様な形に押しつぶされた車、折れ曲がった電柱に絡みついた漁具、打ち上げられた漁船…。

 釜石市から海沿いに国道45号線を大槌町、山田町、宮古市へと北上しました。

 鋸の刃のようにギザギザに入り組んだリアス式海岸の地形は、入り江にある平野部には町が栄え、町と町の間には険しい山が海岸まで迫り、かっては陸路での移動が困難であったといいます。

 人家のない山越えの道は、おそらく震災前と大きくは変わらないでしょう。しかし、一山越えて、町や集落に入る度に、目にする光景はまるで戦場の跡のようで、言葉も感情も凍りつくような凄まじさでした。

 支援物資を届けた宮古市立鍬ケ崎小学校の避難所は、校庭まで津波が押し寄せました。車を降りて、歩いた港までの道の両側には「がれき」の山がうずたかく積まれていました。

 よく観ると、その中には衣類や食器、本やアルバムなど、生活の匂いが染みついたものがいくつも交じっていました。とても一括りに瓦礫などと呼べないそれらの品々の持ち主を思い、心の中で何度も手を合わせながら、重い足取りを進めました。

 あれから10カ月。『コトノネ』第2号の取材のために降り立ったJR山田線・宮古の駅前は、津波の被害を受けていないこともあり、「ここが被災地?」と、思えるほど長閑な佇まいを見せていました。

 取材先の『カリー亭』さんは、国道45号線が宮古の市街地に入る手前にありました。

 昨年3月にこの道を辿った時には、すでに営業を再開していたということですが、当時、車線が半分になった国道の両脇は「がれき」で埋まり、その陰に隠れて見落としてしまっていたのかもしれません。

 市街は一見、平穏さを取り戻しているようにも見えますが、マスターの小幡さんに案内されて、歩いた港には、津波の爪痕がまだ生々しく残っていました。

 何より港近くの埋め立て地に集積された膨大な「がれき」の量には、復旧・復興までには本当にまだまだ長い歳月を必要とすることを思い知らされました。

 「生活の思い出がつまったこれらを『がれき』と呼ぶことはできない」と、ぽつりと呟いたマスターの言葉が心の奥底に深く響きました。

(以下、略)

Miyako01

(港にある倉庫の屋根は、津波の強烈な引き波により、

果物の皮をむいたようにめくれあがっていた)

Miyako02

(埋め立て地の「がれき」集積所では、大型重機が何台も稼働しているが、

この山がすべて消える日は、一体いつになるのだろうか?)

Miyako03

(新しい防潮堤をつくる工事も進められている。

この巨大な構造物を、陸地で組み上げた後、海に運ぶという)

Miyako04

(大量の貝が付着した大木の残骸。

こんな大木が津波で海に運ばれ、また引き上げられたのだろう)

 障害者施設の復興支援や、『コトノネ』の取材で、被災地に足を運び、被災地で暮らす人たちにお話を伺う度、復旧・復興への道のりの遠さと、それに反して、被災地以外では、段々、震災の記憶が薄れていこうとしていることとのギャップに心が苦しくなります。

 だからこそ、「伝えつづけていくこと」の大切さを一層、感じます。

 昨年3月に被災地を初めて訪問したあの時、あの光景に、カメラを向けることができなかった自分を、今になっては、少し恥じる気持ちが芽生えています。

 来週は、3月31日に開催するヤマト福祉財団取材の「パワーアップフォーラム」の実行委員として、宮城県石巻市と、福島県南相馬市を訪ねてきます。

(天野)

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