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2015年3月

「消えない火」は、もういらない

宮城県の女川町が
メディアで「復興のトップランナー」として取り上げられている。

15メートルの津波が街をなめ尽くし、
800人を超える方が亡くなるという悲惨な状況から...
再び、立ち上がり、
若い人たちを中心に、新しい町づくりをめざす女川町の人たちの
とりくみは、本当にすばらしいものであることはいうまでもない。
ましてや、ケチをつけようなどとは毛頭思っていない。

でも、被災地全体、とりわけ、今なお、原発事故に苦しむ福島のことを思うと、
正直、違和感を覚えてしまう。

復興のスタートラインに立てからこその「トップランナー」である。
いまだに、スタートラインにすら立つことができない人々が暮らす地域。
若い人たちの知恵や力を期待したくても、若い人たちがいなくなり、年寄りだけが取り残された地域。
そんな人たちにとって、「復興のトップランナー」という言葉は、
重く苦々しく、孤独感や疎外感を一層、かきたてられるものになってしまうのではないかと思い、悲しくなってしまう。

ずっと昔、東北を車で旅したときに、女川原発に立ち寄った。
原発の良い面ばかりを強調する案内に、なんの疑問を感じることもなく、
「そんなものか」と思っていたからっぽの自分がいた。

そんなことがあっては、当然ならないことだが、
もし、あの震災で女川原発が事故を起こしていたら、
女川町は、「復興のトップランナー」どころか、
復興からまったく取り残された、人の住めない地域になってしまっていた
危険性は、誰にも容易に想像できる。

女川町が「復興のトップランナー」として、走り続け、やがて、
「やはり、街の経済を活性化するためには、女川原発の再稼働が必要だ」
ということになり、再稼働が認められてしまうようなことになれば、
地域やコニュニティの復興と原発神話の復活がいっしょくたにされてしまう。

メディアが、女川町を「復興のトップランナー」として、
一斉にはやしたてること。
その裏側には、この国の誰かの悪意に満ちた情報操作の思惑があるように感じてしまうのは、自分だけではないはずだ。

復興のスタートラインにいまだ立つことのできない福島に暮らす
南相馬ファクトリーの佐藤さんが、
福島民放のコラムに「消えない火」という文章を寄せている。

福島にも、女川にも、川内にも、そして、日本のどこにも、
もう「消えない火」はいらない。

これからこの国を担っていく小さな子供たちにも、わかりやすく読める佐藤さんの文章をぜひ、お読みになってください。

(女川町の人たちには、もしかすると、大変失礼なことを書いてしまったかもしれない。お気を悪くされたら、本当にごめんなさい。私自身ももちろん、女川町の復興を心から願っています。)

http://minamisoma-fc.jugem.jp/?eid=1082

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捨てられない手帳 3月11日に思うこと

2011年から毎年の手帳が捨てられなくなった。

3月11日、銀座のスワン本部で海津社長(当時)と打ち合わせ中に、
大きな揺れに見舞われた。
電車がすべて止まり、徒歩で町田をめざした。...
情報が全く入手できず、東北地方の沿岸部で
大変なことが起きていること知らないまま、歩き続けていた。
日付が変わるころ、成城学園前から、運転を再開した小田急で帰宅し、
恐ろしい事実をようやく知ることができた。

12日は、朝から、就労支援センターの登録者のうち、
一般就労している人たちの安否確認をおこなった。
歩いて帰宅した人、会社に泊った人、避難所で一夜を明かした人、
翌日になってようやく46名全員の無事が確認できた。

16日に、当時の法人内で、震災対策会議を立ち上げ、
被災地の障害者施設への支援(救援)策を話し合った。

食糧や飲料水、燃料や日用品をかき集め、
18日早朝に、今は亡き糀谷さんを隊長とする
第1次支援隊が、被災地(宮城県)に向け、出発した。

被災地から戻った糀谷さんからの報告書には
次の文章が記されていた。

「津波被害を受けた地域を視てきました。
ニュース以上のショックを受けました。
この場所で笑ったり、泣いたりしていた人がいたとは考えたくない、
信じたくないといった光景でした。
町の復興や再建というより、開拓が必要になるといった感じです。
かろうじて残った家から荷物を運び出す人や、
ただ呆然と家を見ている人がいました。
ただただ胸が痛くなるだけでした。
また、いたる所に壊れた車が放置されていました。
これらの車は給油キャップが、こじ開けられており、
ガソリン不足も痛いほど見てとれました。
なかば興味本位のような気持ちで津波の被災地に踏み込み、
写真を撮ってきたことに後悔をしています。
けれども、今回の現地入りは
『いろいろな事を考えることができた』
『考える機会を与えてくれた』
私自身にとってプラスの経験だと思っています。
たいした支援はできませんが、
許可があれば再度現地に向かいたいと思います。」

震災直後の被災地に入り、生々しい現実を観た糀谷さんたち。
「天野さん、被災地から送った写真は消去してください」と、
いまにも泣きだしそうな表情で、弱弱しく口にした
彼の言葉(そして彼の優しさ)が忘れられない。

糀谷さんの話を聞き、居てもたってもいられずに、
25日~27日まで、
今度は、私自身が、第2次支援隊の隊長として、
就労支援センターの職員2名を連れ、被災地(岩手県)に向かった。
遠野市在住の旧友に道案内を請い、
釜石から宮古までの沿岸部を北上した。
震災から2週間過ぎていたが、
国道45号線の両脇には、ガレキが山のように積まれ、
戦場のような光景がどこまでも続いていた。

車を降りて、歩いた宮古の鍬ケ崎地区では、
大きな観光船が、海から何百メートルも陸地に乗り上げ、
船の下には押しつぶされた家屋や車があった。
テレビの画面ではなく、生で観る現実に身体が震えた。

その後も法人から、何度も支援隊を派遣すると同時に、
たとえ被災地に行くことができなくても、できる支援として
被災地の障害者施設の製品を仕入れ、販売する復興支援物産展を
各地で開催した。

2011年以降の手帳には、被災地の地名がいくつも並んでいる。

釜石、山田、大槌、宮古、陸前高田、気仙沼、
仙台、名取、七ヶ浜、石巻、亘理、
南相馬、飯舘、福島、郡山、須賀川…。

震災から4年。
いまだ原発事故の影響を受け続ける福島を筆頭に、
被災地の復興はまだまだ進んでいない。

もし、あの震災がなかったら、
新しい法人を立ち上げ、
障害のある人のディーセントワークをめざして、
就労継続支援事業A型に特化したとりくみも始めていなかったかもしれない。
そうした意味で、私たち自身にとっても、あの日は、大きな転換点となった日かもしれない。

できることなど、たかがしれている。
でも、あの日を忘れないでいること、
たとえ、細く弱いものであっても、
どこかで、被災地とつながり続けていることを大切にしていきたい。

震災で亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、
被災地の復興が1日も早く成し遂げられることを願って。

きょうされん福島支部から、3月11日を迎えるにあたって、メッセージが出されました。
穏やかで心優しい人たちが暮らす福島からのメッセージです。
震災から4年過ぎても、
原発事故の被災地でもある福島の復興はまだ始まっていません。
福島の現実、福島で暮らす障害のある人たちの現実を...
たくさんの方に知っていただくために、
ぜひともシェアをよろしくお願いします。

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